聞いてるか神様。

the things im afraid to say.

無題。

 

私は誰かに頼ることが一番苦手だ。誰かに向けた"お願い"ですら躊躇してしまう。可愛くおねだりが出来ない。それ故に愛想がないと云われ続けてきた。

進路は全て母親の云うとおりにした。そうしないと母親の機嫌が悪くなるから。夢は全部諦めた。興味のあることに費やす時間なんてなかった。

 

父親は"勉強のできる私"が好きだった。部活や絵画のコンクールで幾ら賞を取っても興味がなさそうだった。良い点を取る事だけが彼の気を引く唯一の方法だった。

 

ただ、世間体に対しては二人ともが敏感だった。

これは私が育った家庭と環境故に仕方のない事だったのだと諦めている。二人がそれぞれ持つ世間一般から外れる事が許されなかった。特に父親は私を殴り、暴言を吐きながら"私"という人間を否定するような叱り方をする。

一番抉られたのは暴力ではなく、

「何回殴ってもわからないならお前よりも家畜の豚の方が頭が良いわ」

という言葉だった。

あぁ、このヒトにとって私への躾は家畜へのそれ同然だったのかな、なんて思った。

屑、死ね、と云われたこともあった。

「御前に費やしたカネは返ってくるかもわからない投資」とも云われた(これに関して云えばまぁ理解はできなくもない)。高校進学と同時にそれまで難なく熟していた勉強が全くできなくなったこともあり、成長の途中から彼の思い通りにならなくなった私は、とにかく目障りで要らないモノだったのだと思う。

そんな私でも進学校というブランドのついた高校に通っている御陰で、世間体では"親の自慢であり誇り"だった。家では「屑、馬鹿」と罵られるのに、外では"優秀な娘"だった。

私は屑なのに、外では両親の誇りで居なければならなかった。嬉しくなんてなかった。只々惨めだった。

 

 

両親に言い返したり意見したりすることは幼い頃からしなくなった。

きっかけは初めて行った沖縄への家族旅行だった。

喉が渇いた私は「あれが飲みたい。」と売店のマンゴージュースを指さした。それを聞いた母親は「もうホテルに戻るから我慢しなさい。」と云ったが、私は「えー! あれがいい!!」と駄々をこねた。結局マンゴージュースを買って貰えたのだが、その時に父親がボソッと「これだから餓鬼は。」と云ったのを私は聞き逃さなかった。

あぁ、我が儘を云えばこのヒトには嫌われるのだ、と小さいながらに感じた。

そこから父親があまり好きではなくなった。

我が儘も云わないように、本気のお願いも冗談っぽく。そんなことを続けるうちに段々と本音が云えなくなってしまった。

 

  

最近になって母親に、

「父は"勉強できる私"が好きだったよね。

"○○高校に通っている私"が好きだったよね。

何も出来なくなった私は、彼にとって自慢でも何でもなくなったよね。」と聞いた。

母親は小さく「うん。」と答えた。

「それを知ってたのなら、私がつらかったのも悲しかったのも知っていたよね? 散々な事云われてきたのも報告したよね?」と聞くと、

「知ってたよ。」と云われた。

でもそれだけだった。知った上で、見てない振りをされていた。

それ以来、誰かに期待をすることが馬鹿らしくなった。

 

 

母はある日、

「でもお母さんはきちんと"母親"をやってきたよね?」と聞いてきた。

母親は"こう在るべきだ"なんていう指標がある役割なのだろうか。子どもにとっての"良い母親"と、世間からみた"良い母親"は相容れないことが多いと思う。

母は「あなたは間違っていなかった」と云われたいのだろうなと思った。私は私の意見ではなく、周囲の大人が発した母に対する評価を母親に話した。

それを聞いた彼女は満足そうだった。

 

 

「失ってからじゃ遅い。」とよく聞くけれど、

ほとんどの事は失ってからじゃないと気付けない。他人に頼る事は、そのヒトを信頼していないと出来ないらしい。誰かを愛する方法は、誰かに愛されないとわからないらしい。

 

 

今までに募った不信感はきっと消えないし消すつもりもないけれど、

感謝をしていない訳ではない。