聞いてるか神様。

the things im afraid to say.

無題。

"表現が淡泊だね。"と云われることがよくある。

これは自分でも自覚していて、元々性格があっさりしている訳ではなく、どう表現してよいのかわからない部分が大きい。

誕生日に高価なモノを受け取った時、心底嬉しい筈なのに、「私なんかが受け取って良いのだろうか…私とお揃いなんて、本当にそれで良いのだろうか…」と、逆に不安になったことを覚えている。

客観的にみれば嫌ならお揃いのモノなど買おうとしないだろうし、そもそも誕生日に何かを渡さないのは容易に想像がつく。

それでも自分がいざ当事者となってみると、不安でいっぱいになり、微妙な反応しかできなくなる。

 

感情を体現することが苦手で、言葉にすることも苦手で、上手く気持ちを表現できずに壊れた人間関係もあったような気がする。関係がこじれ始めると自分の意見を云うことが億劫になり、早々に「もういいや」とか「面倒」とか思うので、それ以降は何も考えたくない。

 

そんな私をみて、ひとりだけ、

「淡泊じゃなくて諦めているだけでしょ」と云ってきたヒトがいた。

図星を突かれた気がして嫌だった。

 

私はいつも、何かにつけて「苦手だから、家庭の所為だから、性格だから」と言い訳をしがちだ。これは私の悪い癖で、すぐに他人の所為にしたり、どうしようもないことだと結論付けたりする。

 

 

 

「変わりたいけど変われない」

以前そんな相談を私にしてきたヒトがいた。

変わる努力もしていない、変わりたい理由もペラペラな、口先だけの意見に心底苛々した。

一時の感情に任せて意見を云い、散々な言葉を浴びせたけれど、何に対しても甘く、行動に移さない私に全部跳ね返ってくるだけで苦しかった。

 

 

久々に会った父親は私を見て、

「散々な目に合ったのに変わっていないってことはわからないんだよ。こいつはわかってないんだ。本当にわかっているのなら気をつけれるだろ? わかってないんだよ。もうこいつには云うだけ無駄なんだよ。幾ら説明したってわからないんだ。だって、できないんだから」

と母親に云った。

「あぁ、もう私は彼には期待されていないんだな」と思った。

言い返さない母親を見て、「彼女も私に期待していないんだな。無駄だと思っているんだな」とも思った。

 

 

親の言葉は私にとってある意味呪縛だ。

「馬鹿」とか「御前には無理だ」とか「死ね」とか、「家畜以下」とか「無駄」とか「見返りの無い投資だった」とか。

幾ら嬉しい事が積み重なってもべったりとこびり付いて忘れられない。何かの拍子にふと思い出してしまう。

その時の状況、声、表情、空気、時間、全てが蘇って私に迫る暴力になる。

 

 

「御前には友達なんていない。御前がそう思っているだけだ。御前を好きな奴なんていない。本当に御前を必要としてるヒトなんていない。たまたま近くに御前が居たから選ばれているだけだ。」

幼い頃から何度もそう云われてきた。

わかってるよ。

そんなこと、私がいちばんわかってる。

 

両親に期待されていない。

両親でさえ私を必要としていない。

それなら私も私自身に期待するだけ無駄だ。

「だって、できないんだから」

 

他人の好意を受け取ったとき、どうしても彼の言葉を思い出してしまう。

信じたいのに言葉の裏を探ってしまう。

向けられる好意全てに疑いが湧いてくる。

 

そんなねじれた性格を抱えたまま育ってきた。

ここまで育ってしまったのだ。もう変わらない、変えられないだろう。

 

でも最近は今までと違って、関わるヒトの数が圧倒的に増えた。

私に好意を寄せてくれるヒトもその分増えた。

私のことで真剣に怒ったり悩んだりしてくれるヒトができた。

とても嬉しい事だと思う。嬉しいのだけれど、そんなことは人生で初めてで戸惑いが大きい。

自分は上手に楽しさを伝えることができているのだろうか。

嬉しくても、何時も何処かで不安になる。

不安になって表情が白けてしまう。

私が楽しく過ごせる場所がある事が、私にとってはいちばんの不安になる。

それがきっと、淡泊だと云われる所以なのだろうなと思う。

 

 

 

 

此処まで文字に起こして、気付いた云いたいことは要するにそういうことで。

こうやって他人の所為にして、責任を押し付けたくなる自分にも嫌気がさす。

 

 

結局私は今日も変われないままだ。